最近思います。
寂しがりやのひとり身の友人が
「孤独に耐えられないから長生きしたくない」
と言ったのを聞いて、仲良くなってくれた人達にお礼の意味を込めて全員見送って最後に私は孤独死でいいやと思っていたんです。
自分の骨は自分で拾うくらいの覚悟で健康寿命と命の寿命を同じにできる様にと意識高く自炊にも力を入れてトランポリンで運動も始めてガツガツした自分が良い感じでした。
でもよくよく考えてみると私には扶養家族もおらず、私がいないと生きていけない人間なんて皆無。
私がいなくなっても誰の生活にも影響を及ぼさないんだなぁと。
自分はあまり寂しがりやではない方だと思うので、気がついた時に特にショックもなかったですが、生き方を少し考え直さなければと思いました。
美輪明宏さんがおっしゃる様に〝人付き合いは腹6分目〟と思っているのに人が好きでついついガッツリ寄って行き過ぎて後悔してしまうことがあるので、120%で付き合う時は付き合って、適度に20%くらいの時期も作ってちょうど60%にしていくことを意識しなければと最近は人付き合いを少なめにしてみています。
全てにおいて「あったらあったでなかったらなかったで」と思う様になりました。
私の命も今はあるから全力で生きるけど、なかったらなかったであっさりこの世に未練を残さず去って行こうと思います。
命のあるなしではなくて、ただただこの肉体を手放すだけってことなのかもしれないけど。
だから自宅で孤独死しても、うちは事故物件にしなくて大丈夫よと伝えたいけど信じてくれるかな(^_^;)
だからといって別にいつ死んじゃってもいいやなんて思っていません。
「120歳まで生きるかもしんない私。」「私が見送ってあげるから長生きしても大丈夫よ」などととしょっちゅう口にして、生きることに対するパワーが大きい方だと思います。
ここ1週間くらいそう思っていてまたふと思い立つことがありました。
もうすぐ職場の先輩が亡くなって6年経ちます。
彼女も買ってた猫は扶養していたけどひとり身で亡くなったことによって路頭に迷う家族はいませんでした。
でも今でも思い出して涙が流れることがあります。
亡くなるには若かった。
何が悪くてあの様な重い病気になってしまったのだろうと思っては涙します。
最後まで元どおりの生活の戻れると信じていたみたいで悲壮感はなく呆れるほどのんきでした。
あんなに苦しくてのんきでいられるの意味が全く分からない。
自分だったらどうなってしまうのか。
ある意味尊敬。
好きな芸能人がたくさんいた人だから今でもその辺ウロウロしてるんじゃないかな(笑)
タダでコンサートや舞台が見られてラッキーとか思ってるかも。
90歳を超えて亡くなった祖父母たちには「ありがとう。お疲れ様」と思えるけど、それより若い人はまだ早いと思ってしまうからやっぱりもっと生きることに執着してみようかなと思い始めました。
人はありがたいのに近づきすぎてもいけなくて難しい。
一生悩めばいいや。
全て正しいなんて正しくないと思うし。
樹木希林さんの本が早く読みたいな。
家が狭いので買わずに図書館で予約中ですがいつ順番が回ってくるか分からないくらい待っている人の人数多すぎです。
ローランドさんの本は印税全額が寄付になっているからこちらは買ってもいいかな と検討中です。
いろいろな人の考え、生き方とこれからもたくさん接していきたいです。